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執筆者の写真矢口洋子

食医 石塚左玄の食べもの健康法




自然食養の原点「食物養生法」現代語訳より抜粋

 明治の頃、西洋医学の医者が治せぬ病を食べ物を変えることによって治した医者がいた。石塚左玄という。わが国食養医学の礎を築いた人である。その志は現代の穀食主義、玄米食へと受け継がれている。気候風土にあわせて、その土地でできるものを食べることが肉体的、精神的健康をつくる。「体育、智育、才育はすなわち食育である」と左玄は説く。

 論語に「物事の根本が確立してこそ道理が成り立つ」とあるように「食事が確立してこそ人間が成り立つ」と言える科学的な証拠があるのである。さて、世間の諺では「土地柄によって違った人間ができる」というけれども、実は食物が人を左右するものである。つまり、食事の摂り方によって、人の身長も高くなったり低くなったり、太ったり痩せたりする。また、人を健康にしたり病弱にしたり勇敢にしたり臆病にしたり、判断力の優れた人にしたり、才気ばしった人にしたり、長寿させたり若死にさせたりするだけでなく、精神的にも柔軟にしたり、粗剛にしたりする。つまり、高尚・静粛・温和・優美になり、あるいは、野卑・喧騒・強情・卑劣になるのも無論、食物が原因なのである。


人類は穀物動物なり

人類をはじめ、すべての動物の食養は、それぞれ、その性質にかなったところ

があるのである。春夏秋冬の季節ごとの食があって、それに順応した養いをしなければならないように、化学的食養の道にもおのずから一定の標準があって、それに適した食物を摂らなければならない。

 さて、虎、犬、猫のような肉食動物の歯は、いわゆるのこぎり歯であって先がとがり、下あごが横や斜めに動かない。これは堅い骨や肉を噛み砕くのに適していて、草類、穀物類を食べるのには適していない。ところが、牛・馬・羊のような草食動物の歯は平歯で、すき間なく生えており、その面は平らで波のような紋があり、下あごは横に斜めに十分に動く。これは、草類をかみこなすのには適しているけれども、ネズミやイタチのような動物を食べることはできない。

 そこで、人類の歯の構成はどうかというと、一番多いのはいわゆる臼歯であって、すき間なく並んでいる。下あごは前後左右に少し動く。臼歯の構造は、縁が高くて中が少しくぼんでいる。いわゆる菊座形であり、上下の歯を合わせると、中に大小さまざまな粒状の空間ができる。これは、まさに穀類の粒を噛みこなすのに適した自然の形を持っている、と言わなければならない。人類のあごは他の動物とは全く違った独特の形と機能を持っているではないか。人類は生まれつき穀類を食べる穀食動物である。

 このように検討してみると、人類の歯とあごに最も合った食物は穀類であり、これが最も良く最も勝れたものである。穀類は口の中で臼歯によって細かくされ、唾液が混ぜられ、ここですでに若干の化学的変化、すなわち消化作用があり、次に胃腸に送られて、さらにまた化学的変化が行われ、消化吸収されるのである。その成分は有機質、無機質ともに配合の比率も良く、身体を養うのに適しているために、古今東西どこの国でも穀類を何千年もの間けっして変わることのない、必須で最も重要な主食としてきた。すなわち、国々の位置と気候とにしたがって生産される穀類一種だけで、十分に身体を養うことができることは明白であり、穀類は、病気なく健康で、体を保ち長寿する道にかなった成分と、その比率を持っていることも明らかである。

 ところが、次のような場合には、穀物だけではなく、副食が必要となる。

すなわち、米飯を食べてきた国民がパン食に変わった、というように、その国土・気候に適さない穀物食をするとか、玄米として食べるべきなのに、搗いて白米にして食べるというように天然の成分をこわして穀物を食べるとか、あるいは、穀物が不足するので、その代用に、イモ類・乳類または魚、肉類などを食べる場合には、食事内容の成分と比率が変わってくるので、その補いのために、豆類・野菜・果物など、または塩辛い植物性食品を摂ったり、あるいは、魚・鳥・獣の肉や卵のような塩のうすい動物性食品を適度に摂らなければならない。

 我が国は地理的に肉食が必要でない。我が国の人は、現代人が考えるようには肉食をする必要がないという化学的な理由がある。東洋の暖かい国とヨーロッパの涼しい国とでは常用している食物の種類も化学的成分も異なっており、また、異ならざるを得ないのである。肉類を食べなくても健康上さしつかえないばかりでなく、むしろ、肉など食べない方がよいというべきなのだ。ところが、人間は肉類と野菜類を双方食べて栄養をとらなくてはならないという、現在一般的に言われている、確かな根拠のない議論にいたっては、人間が大自然によってつくられた本性に反するものと言わなければならない。

 ところで、いわゆる美食というのは、こってりした味の肉食のことを言って、あっさりした味のことではないようだ。聖人は、古今東西、肉食をつつしんできたが、肉類は野菜の料理よりも塩分のあま味と香味のおいしさがあるので、一般の人間の多くは、肉をむさぼり食いたいという欲情にかられてしまう。そこで、釈尊も肉類に毒性があるとして、病気の時に薬として使う他は肉食を禁じるなどの食事の戒律をさだめている。肉食が多ければ多いほど人心は硬化して荒っぽくなり、とどのつまりは人面獣心となる。しかし、穀物・野菜が多ければ多いほど、人心は柔軟かつ精密となり、ついには大慈善心となる。



 間食品は思考力と記憶力を減殺する。

間食品類は、ほとんどみな、手持ち無沙汰をなぐさめるための贅沢品ではあるが、やはり口に入れるものであるから、その配合成分は、健康を損ねる事がないよう、食養の理法に注意して製造しなければならない。とはいうものの商売が盛んで競争が激しい当節においては、そのようなことも言っておられず、間食品の大部分は、みな思考力と記憶力とを減殺する、肉食と同一の性能があるにもかかわらず、人が欲するまま、買うがままに、なるべく多く売りさばく目的でつくられている。その土地に菓子屋と料理屋が多ければ、そこは雑食が多く正食が少なくて、病気が多く平安でないところであり、そのような人々であると知れる。


 洋食好みは子孫に祟る。

繰り返して言えば、現在のように才進智退の食政法におぼれ、ただ目と口の養いを先にして、心と体の養いを後にし、美味の肉を食らい、あるいは塩味のうすい副食品を多く食べていると、こういう人間は、えてして、口は達者だが、やることなすことへマばかりで、思慮が少なく、世間に対して肩身は狭く、腹は小さく脚は長く、靴だけは大きいが、胴胸は狭く、目はフクロウのように動き、額は狼の如く狭く、スキあれば人につけこもうという浅ましい心があるばかりでなく、よろずなす事は初め華々しく、終わりは尻切れトンボで、小さなことにあくせくするものである。すなわち、和食をきらって洋食を好めば、災いを招いて身をほろぼすだけでなく、子孫に祟って、食いはぐれで意思が弱く、病気がちで、早死にしてしまうことがあるのも、自養自得のせいだとあきらめなければならない。災いと言っても、自然界の天災は一時の事で、あるいは避けることができるかもしれないが、自分で招いた長期の災いは逃れることはできない。 

 ところで、このような身体の弱い者を食事療法で治そうとするには、なるべく若いうちに早くから実行しなければならない。それには第一に硬化成分の多い穀類を主食とし、副食は植物の皮肌をむかないもので、これに、うま味を出すために動物性食品を配合して煮た、油気のある塩気の強いものを摂る。そしてもし間食しなければならないのであれば、人間は穀食動物だということを忘れずに、小豆餅、ぼた餅、草団子、塩えんどう餅、いなりずし、五目ずしとか、あるいは玄米の塩せんべい、玄米の入った炒り菓子などを適当に選び、また、これらのものを食べた後には漬物を食べ、あるいは、茶請けは漬物だけとするようにすれば、精神も行為もまともになり、体つき、色つや、威儀、人格までも改良することができる。この食療法では、化学的にも植物性の吸収作用を貴ぶのであって、その食物が硬いとか軟らかいとかではなく、一般に塩気の強い植物性食品は吸収が良く、塩気の薄い動物性食品は吸収がわるいものである。人は食べるべきものを食べ、食べるべきでないものを食べなければ無病息災なのである。

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